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By The Day


One more cup of coffee

いよいよ夢のようなGWが終わりを告げ
川を上る鮭のようにまた現実へと遡行していくこととなった。

にしても実に有意義な一週間であったなと僕なりに思う。人に”話すこと”を目的としてこうも多く”会いに”出かけた連休は初めてだからである。よく恋人と毎日会った、とか、恋人と大きな経験をした、とか言うような武勇伝なら耳に胼胝ができるくらい聞くのだが、僕があっていたのは男だしそれ故自分でも始めて腹のそこから楽しいと感じるような連休になった。

何でこんなことを思うかというと、それはコーヒーを摂取した量が尋常ではなかったから。スターバックス・ドトール・エクセルシオール・サンマルクカフェ・・・・・一日で四件梯子した日もあって連休中に総量二桁杯のコーヒーと付随してカフェインを摂取したことになるわけである。会話をどこかで腰を落ち着けてすることがいつしかコーヒー(なりなんなり)を飲むことになっていた。昔は(結構最近かも・・・)コーヒーなんて黒い&苦いで「これが飲み物か?」なんて思っていた。だけど今では腰を落ち着けるのはカフェ、シュガーやシロップも大抵不要、好きな濃さもあり、なんて具合になったしお気に入りのカフェも数店あったりする。

日本におけるコーヒー(”珈琲”のほうがよいかも)の歴史を紐解くと1609年平戸に和蘭商館が開設され、コーヒーが伝えられたと言われている。大正時代に入ってきた飲み物が挽き方・入れ方のさまざまなアレンジを経て今日に至ることは、そういった歴史性も含めて、古着が好きな僕の芯に訴える何かがあるように思う。

てなことを書くと、なんだかコーヒーが飲みたくなってきた。一人で本を読みながら、友人と真剣な話をしながら、友人の恋愛話を聞きながら、右手に握るコーヒーはその時々でそれとなく味を変える。バックに流れるがディランの曲ならば尚のことコーヒーは趣深いものになるのだろうな、なんて思うのである。
# by yu-yama0520 | 2006-05-08 15:31 | essay


この街の占師たち

この街には三人の占師がいる
いや、三人も、といったほうがいいのかもしれない

能天気と言われても笑顔で頷き
馬鹿と罵られても勘付かず
悲しいことと言えば誰かの死のみ

こんな人々がこじんまりと暮らしているのだから
そもそも占いなんて必要無いと言ってもよいのだ

一人目の占師は何でも当てることで有名だ
病気だとか
あってないような悩みだとか
天災だとか
すべてさらりと当ててしまうのだ

二人目の占師は絶対に当たらないことで有名だ
将来のこととか
性懲りも無い恋愛のこととか
商売のこととか
すべてきっちり外すのだ

第一の占師で用が足りてしまうと思うのは外部の人間が早計なのであって
この街の人々は皆 そもそも占師など必要ないのである
だから第二の占師の下へ駆け寄っては
彼の占いが当たる最初の人間たろうと
そんな傍から見れば占いとは無縁な理由で駆けつける

そんな第一・第二の占師に対して第三の占師は
何も語らないことで有名だ
どんな大事を持ちかけても
些細な身の上話を持ちかけても
彼は何も語らない

無言故に街の人々は自ら何かを考えるのかと思いきや
やはり何も考えない

ただ不思議なことに
今日も彼の小屋には、今日も街人が列を成しているのである
# by yu-yama0520 | 2006-05-08 15:06 | poem


スポーツドリンクを水と分けてコップに注ぐ

晴れたすがすがしい一日は、東京は千代田区、九段下の靖国神社で過ごすに尽きる。
なんてことはあり得ない話であるが、今日の晴れ日に靖国神社に行ってきたということは事実である。行ってみて分かったのだがやはり愛国心だとか、そういう上辺だけの言葉では形容できない”日本人のみが分かる厳かさ”を感じることになる場所であるように思う。

そんな靖国神社に関して語られるのが合祀・分祀の問題と言うことになる。
これまた”べき論”は避けて客観的、辺縁的な部分から見るのであれば、こんなことが言えるように思う。

明治天皇の思し召しで、戊辰戦争において国のために戦ってはその命を落とした護国の英霊、彼らを祀るべく1869年”東京招魂社”は建てられた。その後1879年東京招魂社は”靖国神社”に名前を改めた。と同時に従来内務省の管轄にあったのだが陸軍省と海軍省に管轄が移った。しかしいずれの時もこの社の持つ形態上の特徴は言わずもがな、今で言う公官庁が運営する言わば”公営”であった。
そして戦後、政教分離の原則に従って靖国神社は単一宗教法人(単一、とは神社本庁に加盟しないことをさす)となった。

以上が靖国神社の経てきた歴史過程と言うことになる。で、個人的な意見になるのだが国外では韓国にせよ、国内では民主党の小沢党首にせよ、合祀・分祀と言う言葉を誤認して使っているように思う。A級戦犯の魂をどこか別のところに移す=分祀では無いのである。そもそも合祀とは”魂を共に(合わせて)祀る”という意味である。一本のろうそくに”英霊の魂を200万柱以上”込めた。その中にはよくないと近隣国から批判される魂(A級戦犯)が混ざっているから別のろうそくに火を移してくれ。
おや?おかしいぞ・・・ということになる。一度一つの炎としてまとまったものから何かを切り分けるなど、スポーツドリンクを一部水とその他に分けてコップに入れてくれ、と同じぐらい不可能なことなのだ。とすると本来の意味では分祀をする、ということは即ちA級戦犯のコピーを別所に作るということなのだ。

さらに言うならば靖国神社は宗教法人であり、非営利であるにせよ財団なのである。これに政教分離の原則、信教の自由と言うスパイスを加えれば、というかこうしてまでも分祀の正当性を唱えるものとは議論が打ち止めにならざるを得ない。

さて現実にタイムスリップして、分祀の正当性はそれ自体が語義矛盾を起こすと言う立場を取ってきたわけであるが小泉総理の参拝によって加熱する炎にはどう対処すれば良いのかと言う現実的な問題とのすり合わせは必ず出てくる。

しかしこの問題を解く、というのは不可能である。と言うのもいかようにでも態度を変えて、それがさも正等であるかのように妄信して、火に油を注ぐ近隣国の存在が”靖国問題”を”靖国問題”たらしめているからだ。少なくとも国内レベルでは合祀・分祀に対する客観的視点を失わず、する・しない、という水掛け論を控えることが重要になってくる。

どうしようもない日和見的な不良に正論は届かない。不良が年寄りになって、無茶が出来なくなるのを待つのが利口だ。最もそのときには新たな若い不良が台頭しているのであるが。

スポーツドリンクを水と分けてコップに注ぐ_b0088064_23425371.jpg

# by yu-yama0520 | 2006-05-05 23:43 | essay


格差と恋愛

最近改めて感じたのだが、テレビをつければ格差、雑誌や新聞を開けば格差、ついに自分の履く二束のわらじの片一足(教育稼業)でも格差、一体どこまでと耳を疑うくらい”格差”と言う言葉が浸透している。

”格差”と言う言葉が、さもそれ自体がマイナスの要素を孕んでいるかのように使われているのでジャーナリスティックに『格差のある社会は良い、仕方ない』とか『格差のある社会はまずい』とか規範論を述べること自体の持つ意味が薄れては消えつつあるように思う。

僕は”格差”と言うものを自然の産物的に扱っている。というのも資本主義にして民主主義、欧州における一連の人権革命以降第一の宝ともいえるこうした概念を国家の基盤におきながら”格差”がでないこと自体が不思議に思うからだ。つまりは資本主義国家において保障されるべきは”入り口での公平性”なのであって”出口の平等性”では無い。”入り口での公平性”が保障された後、入り口を通った全てのものはその中で公平に競争(努力に換言できる)を行うべきであり、競争を行う以上出口の段階では当然”差”が付いてしかるべきなのである。この点こそが社会主義との大きな差であり、自由競争の結果偶然に皆が同じラインに居ると言うことが無いからこそ資本主義なのである。

話をもう少しミクロなレベルに落としこんで、さてA学習塾のあるクラスで成績に”格差”がついてしまったとする。10名のうち成績の良い5名は皆100点、悪い5名は皆0点。ここで格差容認論者は成績の悪い5人に対してこんなことを言う。「皆同じ条件でやってるんだ!努力して追いつけ!」一方格差反対論者はどうだろうか。成績の良い5人に対して「0点のやつらが可哀想だから平均点の50点を次回から取ってくれ。」と言うだろうか、否、成績の悪い5人に焦点を当て「がんばろう」と生ぬるい抽象論で語りかけるのである。大切なのはどちらが良いかではなくて、世間ではいくら批判的な見方をされている”格差”も、それが生じるミクロレベルでは格差に容認的であろうが否定的だあろうがアプローチの仕方こそ違えどやることは同じなのだということだ。とすると現実を悲観視する者が格差容認派、現実を楽観視する者が格差否定派と後付的なラベリングをしているに過ぎないということになる。

ではこれに似たものは身近でないのかな・・・なんて考えてみる・・・なるほど恋愛もこれに似ているように思う。恋人を諸々の社会的通念・規範と照らし合わせた上で好きだと認知している者は例えば相手のファッションにせよ、礼儀作法にせよ、バックボーンにせよ、それらで他との差別化を図った上でその相手をベストパートナーとして受け入れる。一方その逆もあって先ず絶対的な恋人ありき、その上で例えその相手のファッションにせよ、礼儀作法にせよ、バックボーンにせよ、が他と照らし合わせた上で劣ると思ってもそれはしょうがない、いいんだ、と思える人もいる。前者は往々にして格差を容認する立場を取り、後者は往々にして格差を否定的、或いは盲目的に捉える。”恋人はこの人”という線路を一本引くにせよ前者は様々な経験的事実から差別化を行い最終的な線路を導き出す帰納法的な手法を取るのに対し、後者は先ず線路を引く、その上で線路の正当性(優越性)を説明する経験的な事実を整えるという演繹法的な手法をとる。結果は同じ、”恋人”と言う線路が引ける、のにである。

やはり上り電車と下り電車は交わらないのだなと思う。
かつては単線で、一本の線路を上手く遣り繰りしていたものだ。
時代の進歩は割り切りの歴史でもある。上り線が下り線で無いように、自らの現在地を見据えながら反対線にも気を配りつつ加速していきたいと思う。


【追記】
この考えは必ずしも僕1人のものではなくて、非常に刺激的な韓流気取りの男とのムダな対話によって成立した考えである。この場を持って感謝、ありがとう♪
# by yu-yama0520 | 2006-05-04 23:33 | essay


N.hoolywood 2006-2007 Autumn Winter

いよいよ五月に入り、夏を先取りしたような暑さの日もあり、それに伴って着る服も夏服へシフト・・・しかしファッションとは常に時を先取るもの、秋冬コレクションがすでに終わっている。
カテゴリーにfashionなるものを作って、ついぞ書く機会が今日まで無かったのだが、そんな時の先駆者たるfashionにやや気圧されて、書いてみようかなと思って重い腰を上げてみたわけです。

最初なので僕の好きなブランドについて書かない筈は無く、N.hoolywoodの秋冬について思うことを構えずに書いていこうかななんて思って。Autumn Winter 2006-2007の個人的なレヴューとしては『うまくまとまったな』ってな感じ。今期のEdward Goreyへのオマージュが”オールドエイジの回顧”ならば来期のテーマであるスパイは”定式からの静かなる脱却”と言ったような印象を受けた。ここの服が本当に好きな理由は
①デザイナーの尾花さんが古着の存在を常にバックボーンに置いている(と勝手に僕が決めている)こと
②手にとって初めて自分が騙されていたことに気付く服作りである(と個人的に妄信している)こと
の2つに大きくは分類できる。

今期も一見は”かっちりうまくまとまった”服に見えても手に取ると何らかの古い要素や新たな発見が見受けられると期待している。個人的にはツイードのコートとストラップシューズが絶対に欲しいなと思うアイテム。何と言っても僕は古着が好きだし、そういう人間にとっては古着に合わせたくなるような服作りをしている(とこれまた勝手に解釈している)ブランドってのは最高で、もう信者と言ってもいいくらいの状況なのであります。

洋服と言うのは本当に奥深い。
出口の無い迷路に入るくらい奥深い。
どこに行き当たっても罰せられるわけではないし。
どこかに行きたくても簡単に行けるわけではない。

やはり服はいいな。

N.hoolywood 2006-2007 Autumn Winter_b0088064_20231752.jpg
N.hoolywood 2006-2007 Autumn Winter_b0088064_20234590.jpg

(秋冬コレクションのお気に入り写真)
# by yu-yama0520 | 2006-05-03 20:24 | fashion

    

日々自分を見つめる。
by yu-yama0520
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