By The Day


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ガトーショコラ

土曜日はあいにくの雨で、でも午前中のフットサルを終えるや否や、午後から親友と買い物に行った。今回はショップめぐりが主だったから(たいていコレクション終わってるし・・・)原宿や表参道を抜けて、Mister Hollywoodにフルジュンさん居なくて軽くしょげて、んでもって渋谷のカフェで休憩。droleというカフェで初めていってみた・・・・ら最高だった。というのもとにかく雰囲気は静か、家具がシンプルと本当に”憩いの場”ってな感じで、おまけに店員さんもユルカジで思わずポイントアップ↑笑

実は僕には(スタバではいつもレモンケーキだけれど)好きなスイーツがあって、それが”ガトーショコラ”!フランス語の授業でgateau=cake, au=of, chocolat=chocolateということを知ってから、それ故そんなマメ知識(←どうやら回りは皆知ってる。笑)を含めて口に運ぶと一段とおいしいのです。ここdroleでもそんなガトーショコラがあって、好きなおもちゃをショーウインドウ越しに指す少年のように目を輝かせて、注文したわけです。何と言っても無添加であることと甘みがすごく抑えられていて、ほんわかチョコ、ほんわかホイップクリームの甘み、ってのが何とも言えない美味。一緒に頼んだlussiもこれまた果物をそのまま落とし込んだ感じで最高だった。

こうやって雨という演出の中、ゆったり腰を落ち着けて、他愛の無い話、服のことやら、恋愛のことやら(「捕らぬ狸の・・・」)をするって最高の贅沢なんだなと思う。学校の数すくなーい友人にはそういう話できないし、そもそも飲み会の話やら、就活の話やら、そういう興味の無い武勇伝を聞かされるのが痛い僕にとっては全く趣味の違う親友と、全く違うからこそ食い入るように服の話をして、全く進路が違うから共通のトピックを見つけるために手探りして、そういう時間がほんとに幸せ。いつかは(これまた夢物語・・・笑)家族でああいうところで止まったような時間を過ごしたいな。もちろんガトーショコラは健在であって欲しい。
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by yu-yama0520 | 2006-05-28 22:27 | essay


ケニーとサミー

ケニーは美しい
何をしても良くできるし
特にその明るさときたら
回りの皆がうらやみつつも
でも本当に安らぎを感じるんだ
着る物だってきれいだし
髪の毛だって艶やかだ

サミーは醜い
何をしてもミスはあるし
特に日ごろの暗さときたら
回りの皆が陰口を叩くほどの
本当に嫌われ者なんだ
洋服も親が買っちゃあくれないし
髪なんかそれこそ何一つ手を加えていない

サミーは思う
皆が聞いたらなんて思うんだろう
きっと馬鹿にするのかな
それとも無視をするのかな

或いは一番大事なケニーにこの上ない
生きるうえで最高の汚点を残してしまうのかな

でもこのことは
このことこそが
私にとっての何よりのよりどころ
私にとっての何よりの誇り

そう
私はケニーの双子の姉だ
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by yu-yama0520 | 2006-05-28 22:00 | poem


”距離化”の産物

Anthony Downs という政治学者が残した功績は数知れないがDownsの功績の中でも、僕はやはり普遍化に最も適していると思う”ダウンズ均衡”がベストであると思う。Downsの”均衡モデル”のすばらしいところは、各Voterが合理的であることを前提とし、政党の政策と自分の理想との”距離化”を行うと考えたことである。

この”距離化”というのは実に画期的で、今まで数値的にしか距離を相対化できなかった領域を位置によって距離化をしてしまったのである。さらにこれは”二大政党における政策設定ポイント”という極めて政治的なトピックを突破して日常の様々なことに該当・応用できてしまうのである。例えば主婦が食材を買いに行くとき、もちろん単に道のりという数値的な要因で行く店を決定している主婦もいるのであろうがたいていは種類・値段・鮮度・立地といった様々な(単一単位でない)要素を考慮して、数店を評価した後、自分の選好に最も”近い”お店に行く、といった具合にである。

実はこの理論は「恋愛」にも応用できてしまうような気がする。
というのも誰かを”好き”という感覚は、そもそも”感覚”であり数値化できるものではない。だからこそ自分の理想といった選好に最も適合する人と(当然告白→OKの流れを経て)、恋人として付き合っていくのである。ここで大事なのは恋人はベストの選好であるということである。つまり仮に、今の恋人を脅かすような選好が浮上してくるとそこで”距離化”行われ、もしどこかでその”距離”が入れ替われば、即ちそれは好きな人が変わるということになる(当然ここでも成功するかは別にして)。

ここまで考えると、「なぜそんなに難しく考えるの?」とか「恋愛なんだから好きな人が変わるのは自然なことでしょ?」とか「また新たな好きな人が見つからないように愛せば良いんだよ!」とか色々な反論を受けることになるように思う。でも大事なのは今まで”それは感情の部分だから量れない”というのが定説であったことが、こうして”実は距離化できて、logicalに説明できてしまう”ということなのだ。

改めて思うのは僕の最初の恋が終わったときのことだ。あの時どこで彼女の僕に対する距離が、新しい彼との距離よりも遠くなってしまったのかは分からない。わからないということはやはり恋であり、そもそも理論モデルを適用することそれ自体が馬鹿げているのかも知れない。ただこうして思い返せば、やはり常に、前に転がるpositiveな人間であろうというなんとも大切な反省が顕在化されるのは”距離化モデル”の産物なのである。
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by yu-yama0520 | 2006-05-28 21:41 | essay


”加齢”というコンセプト

実に幼稚な問いかけになるのかもしれないが「人は何故、年をとることを嫌がるの?」という問いが依然として、僕には大きなしこりとなって頭の中にどんと居座っている。というのも「もう二十歳だよ」とか「高校生の頃は若かったな」という30歳とか、実に多くの”加齢”というコンセプトに対するネガティヴな発言が耳に入っては通り抜けないからなのだ。

そもそも”加齢”は”コンセプト”では無く”自然現象”なのだという意見も受け入れなければなるまい。自然現象ゆえに不可避だから、卑屈になってそういう発言になるんだという意見もある。しかしそれは加齢が何故不可避ゆえに卑屈なのかということを説明基盤に持たない”机上の空論”なのだと思う。
僕は加齢というのはあくまでも”コンセプト”なのだと思う。ここで言う”コンセプト”とは概念的なものであって自然的な”肉体的老化”というのとは線を画す。年を一つ重ねることを”加齢”と概念的に捕らえたとき、僕はいかんともいえないような嬉しい気分になる。十九歳が二十歳になって合法的に飲酒や喫煙ができるときのそれとは全く違う、だ。一歳年が増えれば自分に一つの年輪が刻まれることになる。さらに年輪というのは木が生長していることの裏づけなのであってもし仮に、僕も年を重ねることで年輪が体内に刻まれるのなら当然それは僕が一年分成長したことを意味する。非現実的な発想なのかも知れないがこういうある種の危機意識は自分をすごくモチベートしてくれるし毎日が少しずつではあるが楽しくなる。

そんな僕も今日ばかりは緊張する。というのも今日は年輪が刻まれたかどうかの発表日なのだ。がしかし、ここが年輪の美しいところであると思うのであるが木は最後に切ってみないと年輪がいかなるものかは分からない。成長を辞めない木だからこそ切ったときに見える年輪は美しい。さて、一体今年はどういう年輪がどういう形で刻まれただろうか?また来年はどうだろうか?

こういう「自分に拘る」生き方を、それとなく僕に浸透させてくれたのは間違えなく他界したじいちゃんだ。何よりも自分を大切にし、それ故同じくらい他人を大切にできるすばらしい人間であり尊敬すべき男であった。今年の年輪を持ってまた来年、いずれは亡くなったじいちゃんと片を並べ、それ以上に美しい円形を堂々重ねたいものだ。
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by yu-yama0520 | 2006-05-20 02:22 | essay


感性の問題

カルボナーラ、ペペロンチーノ、ミートソース、ナポリタン、このくらいならまだよいのだがペスカトーレ・・・この辺まで行くと正確な類型が出来なくなってしまう。つまりはパスタの話で一口に”パスタ”と言ってもその味は多用だということが言える。これにパスタ、生パスタ、ペンネ、などと麺の種類まで加われば混乱するには十分なのだ。

さて、僕達日本人は、これまたメインである”飯”に、イタリアの”パスタ”に負けないくらいの詳細な類型化をする。卵掛けご飯に納豆ご飯、おじやに炊き込みご飯、おこげ、なんて具合に”味付け・風味”的な区分けに加えて玄米、白米、などど米自体、イタリア風に言うなら”パスタの種類”の類型も行えばこれまた外人さんにとってはこの上ない混乱となるのだろう。

不思議なことに日本人にとっての米も、イタリア人にとってのパスタも、ベースは同じなのだが味や生地、素材を変えるだけで見るもきれいになったり、全く別物であるかのような味になったり、といった具合に変化を見せる。単に”味を楽しむ”事が限界にきたとき”形を変える”ことでその常食を楽しんできた先人達の知恵はこの上ない歴史の財産なのかもしてない。

さて、こういうおいしいものを口にしたとき、当然ながら僕を含むたいていの人は「おいしい」と感じる。それはかっこいい洋服を見て「かっこいい」と感じるが如くで、要は”五感”によって導出された表現ということになるのかもしれない。ただ、不思議なことにおいしいと僕が思うその同じ料理を食べても「まずい」という人もいるし、カッコイイと僕が思う服を(堂々と)きていても「かっこ悪い」と思う人もいる。(←これはしょっちゅう。苦笑)
ひょっとしたら”そんなのは個人の感性の違いだから当たり前”という当然の反論を買って僕の疑問は萎えてしまいそうなのだがひねくれ者は考える「いや、”感性が違う”って表現はおかしくないか?」って。

ある本でこんな言葉を、ある科学者は言っていた
「正しい自然観とは我々が五感で知ることのできるものと矛盾しないものだ」
なるほどと思う。何となく僕の気持ちを代弁してくれているような気がして嬉しくなった。この科学者の発言に付言するならばこういうことだろう。そもそも”自然観(自然をどう感じるかという点で感性とも言える)”ってのは同じでないことが前提だ。というのもたまたま同じものを観て、同じように感じる人が大多数だからそう感じない人は感性が”違う”といわれてしまうだけのことなのだ。信号を緑というか青というかも結局本人の五感とマッチしてるかが問題なのであって本当は緑なのか、はたまた青なのかということは問題なのではない。ならば洋服も、僕の五感とマッチしていればそれでよいのだな、なんて再認識してみる。

実はこの話にはこんな(些細な)起源がある。おいしいパスタやさんを見つけて、そこでパスタを食べて、こんなへんてこりんなことをぼんやりと考えてみたのだ。なるほど確かに僕の味覚と実際の味は矛盾していなかったしこればかりは”超自然的”な価値観で在ると豪語したくなる、そんなパスタだったのである。

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by yu-yama0520 | 2006-05-20 01:29 | essay


When your own initials are enough.

五月八日付けで世界に誇るトップブランド”LOUIS VUITTON”(以下”ヴィトン”)の日本グループであるLVJのカンパニープレジデント兼CEOに藤井清孝氏が就任する。同氏は前任である秦郷次郎氏の後を継ぎ、年間1500億もの売り上げを誇るヴィトンをさらに発展させるべくその任に付いた。ちなみに前任者であった秦氏は百貨店への”インショップ”出店や六本木ヒルズ店での販売、マーク・ジェイコブス発案の村上隆とのコラボ商品展開の実現と数え切れないくらいの功績を残してきた方なのである。

このようなヴィトンに代表される所謂”ラグジュアリーブランド”はここに来てまた、より多角的に商品を生み出し、より顧客ターゲットを広げて、売り上げを伸ばしている。高校生にもなればヴィトン・グッチといったブランド品を手にして、制服にヴィトンの財布といったなんとも不釣合いな格好も何のそのでハイブランドの門をくぐる。社会人にもなればいかにも日本人的であると思うのであるがある種ステータスの象徴的にブランド商品を買い漁っていく。こうした現状がバックに在っては顧客層の拡大化は自然の流れなのかもしれない。

しかし、ラグジュアリーブランドにあって、今日の顧客層の意図的な拡大化とは一線を画す販売コンセプトを持つブランドがある。何を隠そう、”BOTTEGA VENETA”(以下”ボッテガ”)である。表参道ヒルズに日本発のフルラインをそろえるショップが出来たのは記憶に新しいがその成長はまだまだ止まることが無いように思う。というのもボッテガはグッチグループに約183億で買収されて以来、その当時の50億であった売り上げはいまや230億に上り、これは同グッチグループのイブサンローランに並ぶ規模である。

この飛躍には実は裏づけがある。デザイナーのトーマス・マイヤーは同社の製品を売るに際して本物のラグジュアリーを理解してくれるお客にのみ、納得の上で購入してもらえればそれで良いと言っている。(WWD Vol1362)例えばヴィトンがパンダであれ、チェリーであれ、”デザイン”に工夫を凝らして新たなお客をつかむのならばボッテガは”らしさ”を前面に出して、それが例え時流にそむこうとも自信を持って商品を世に送り出すんだというスタンスがこの発言にも見て取れる。トーマス・マイヤーの言葉を引き続き引用するならば"When your initials are enough."ロゴだけで十分だ、とはなんともかっこいいな、と単純に思ってしまう自分がいる。
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by yu-yama0520 | 2006-05-12 01:49 | fashion


男性版”勝負下着”

女性で言うところの”勝負下着”、即ち男性におけるカットソーの着こなしということになるのだろうか。いきなりセクシーな話題から入ったが”洋服”というものを踏み込んで考えると(たいていは忌み嫌われるが)意外なことが分かったりするものだ。

先の例に戻って女性で言うところの”勝負下着”。なんで勝負”下着”なのかと考える。一見すると別に勝負”T-shirt”でも、勝負"jacket"でも、いいんじゃないかということが言える。でも勝負”下着”。何でかなと考えたときふと男性のことが思い浮かぶ。男性に勝負”下着”はない。となると勝負”下着”である理由はただ一つ、下着が最後の砦的な役割をしているからだということになる。最後の最後に本人の拘りが、それも外からは決して見えない形で隠されていたらそれはやはり素敵なのだなと思う。では男性はどうか?やはり服を魅せる点においてあまりに疎い。女性において一見見えないがやはり拘ってるな、なんて思うものは男性には無いというのが常識的な考えになりつつある。

僕は男性にとってもそんなものがあっていいんじゃないかなって思う。要は脱がないと分からないもの、普段はチラッとしか見えないもの、それはカットソー。よく考えたら男性にとってカットソーは直接肌に当たるもので古い言葉に換言するなら”肌着”的なもの。なんて考えると(アウター)そっちのけでカットソーにお金を回してしまう。特にお気に入りはN.hoolywoodのアンダーウエアーとカットソー。今の時代にあって中国産の「安かろう悪かろう」にわき目も触れず、国産の綿100%でカットソーを作り上げるデザイナー魂には本当に共感してしまう。

普通に見たら”ただの服”、馬鹿が見たら”拘りの服”なんてのがとても大切。自分なりの結構ナルシスティックな視線で服を観て、女性には常に負けず劣らずアピーリングでありたいと思う。”勝負下着”に対抗、とまではいかないにせよ”勝負カットソー”で惜敗くらいには持ち込みたいものである。

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僕の好きなカットソーの中の一枚(グレーの後染めが最高♪)
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by yu-yama0520 | 2006-05-08 23:53 | fashion


One more cup of coffee

いよいよ夢のようなGWが終わりを告げ
川を上る鮭のようにまた現実へと遡行していくこととなった。

にしても実に有意義な一週間であったなと僕なりに思う。人に”話すこと”を目的としてこうも多く”会いに”出かけた連休は初めてだからである。よく恋人と毎日会った、とか、恋人と大きな経験をした、とか言うような武勇伝なら耳に胼胝ができるくらい聞くのだが、僕があっていたのは男だしそれ故自分でも始めて腹のそこから楽しいと感じるような連休になった。

何でこんなことを思うかというと、それはコーヒーを摂取した量が尋常ではなかったから。スターバックス・ドトール・エクセルシオール・サンマルクカフェ・・・・・一日で四件梯子した日もあって連休中に総量二桁杯のコーヒーと付随してカフェインを摂取したことになるわけである。会話をどこかで腰を落ち着けてすることがいつしかコーヒー(なりなんなり)を飲むことになっていた。昔は(結構最近かも・・・)コーヒーなんて黒い&苦いで「これが飲み物か?」なんて思っていた。だけど今では腰を落ち着けるのはカフェ、シュガーやシロップも大抵不要、好きな濃さもあり、なんて具合になったしお気に入りのカフェも数店あったりする。

日本におけるコーヒー(”珈琲”のほうがよいかも)の歴史を紐解くと1609年平戸に和蘭商館が開設され、コーヒーが伝えられたと言われている。大正時代に入ってきた飲み物が挽き方・入れ方のさまざまなアレンジを経て今日に至ることは、そういった歴史性も含めて、古着が好きな僕の芯に訴える何かがあるように思う。

てなことを書くと、なんだかコーヒーが飲みたくなってきた。一人で本を読みながら、友人と真剣な話をしながら、友人の恋愛話を聞きながら、右手に握るコーヒーはその時々でそれとなく味を変える。バックに流れるがディランの曲ならば尚のことコーヒーは趣深いものになるのだろうな、なんて思うのである。
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by yu-yama0520 | 2006-05-08 15:31 | essay


この街の占師たち

この街には三人の占師がいる
いや、三人も、といったほうがいいのかもしれない

能天気と言われても笑顔で頷き
馬鹿と罵られても勘付かず
悲しいことと言えば誰かの死のみ

こんな人々がこじんまりと暮らしているのだから
そもそも占いなんて必要無いと言ってもよいのだ

一人目の占師は何でも当てることで有名だ
病気だとか
あってないような悩みだとか
天災だとか
すべてさらりと当ててしまうのだ

二人目の占師は絶対に当たらないことで有名だ
将来のこととか
性懲りも無い恋愛のこととか
商売のこととか
すべてきっちり外すのだ

第一の占師で用が足りてしまうと思うのは外部の人間が早計なのであって
この街の人々は皆 そもそも占師など必要ないのである
だから第二の占師の下へ駆け寄っては
彼の占いが当たる最初の人間たろうと
そんな傍から見れば占いとは無縁な理由で駆けつける

そんな第一・第二の占師に対して第三の占師は
何も語らないことで有名だ
どんな大事を持ちかけても
些細な身の上話を持ちかけても
彼は何も語らない

無言故に街の人々は自ら何かを考えるのかと思いきや
やはり何も考えない

ただ不思議なことに
今日も彼の小屋には、今日も街人が列を成しているのである
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by yu-yama0520 | 2006-05-08 15:06 | poem


スポーツドリンクを水と分けてコップに注ぐ

晴れたすがすがしい一日は、東京は千代田区、九段下の靖国神社で過ごすに尽きる。
なんてことはあり得ない話であるが、今日の晴れ日に靖国神社に行ってきたということは事実である。行ってみて分かったのだがやはり愛国心だとか、そういう上辺だけの言葉では形容できない”日本人のみが分かる厳かさ”を感じることになる場所であるように思う。

そんな靖国神社に関して語られるのが合祀・分祀の問題と言うことになる。
これまた”べき論”は避けて客観的、辺縁的な部分から見るのであれば、こんなことが言えるように思う。

明治天皇の思し召しで、戊辰戦争において国のために戦ってはその命を落とした護国の英霊、彼らを祀るべく1869年”東京招魂社”は建てられた。その後1879年東京招魂社は”靖国神社”に名前を改めた。と同時に従来内務省の管轄にあったのだが陸軍省と海軍省に管轄が移った。しかしいずれの時もこの社の持つ形態上の特徴は言わずもがな、今で言う公官庁が運営する言わば”公営”であった。
そして戦後、政教分離の原則に従って靖国神社は単一宗教法人(単一、とは神社本庁に加盟しないことをさす)となった。

以上が靖国神社の経てきた歴史過程と言うことになる。で、個人的な意見になるのだが国外では韓国にせよ、国内では民主党の小沢党首にせよ、合祀・分祀と言う言葉を誤認して使っているように思う。A級戦犯の魂をどこか別のところに移す=分祀では無いのである。そもそも合祀とは”魂を共に(合わせて)祀る”という意味である。一本のろうそくに”英霊の魂を200万柱以上”込めた。その中にはよくないと近隣国から批判される魂(A級戦犯)が混ざっているから別のろうそくに火を移してくれ。
おや?おかしいぞ・・・ということになる。一度一つの炎としてまとまったものから何かを切り分けるなど、スポーツドリンクを一部水とその他に分けてコップに入れてくれ、と同じぐらい不可能なことなのだ。とすると本来の意味では分祀をする、ということは即ちA級戦犯のコピーを別所に作るということなのだ。

さらに言うならば靖国神社は宗教法人であり、非営利であるにせよ財団なのである。これに政教分離の原則、信教の自由と言うスパイスを加えれば、というかこうしてまでも分祀の正当性を唱えるものとは議論が打ち止めにならざるを得ない。

さて現実にタイムスリップして、分祀の正当性はそれ自体が語義矛盾を起こすと言う立場を取ってきたわけであるが小泉総理の参拝によって加熱する炎にはどう対処すれば良いのかと言う現実的な問題とのすり合わせは必ず出てくる。

しかしこの問題を解く、というのは不可能である。と言うのもいかようにでも態度を変えて、それがさも正等であるかのように妄信して、火に油を注ぐ近隣国の存在が”靖国問題”を”靖国問題”たらしめているからだ。少なくとも国内レベルでは合祀・分祀に対する客観的視点を失わず、する・しない、という水掛け論を控えることが重要になってくる。

どうしようもない日和見的な不良に正論は届かない。不良が年寄りになって、無茶が出来なくなるのを待つのが利口だ。最もそのときには新たな若い不良が台頭しているのであるが。

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by yu-yama0520 | 2006-05-05 23:43 | essay

    

日々自分を見つめる。
by yu-yama0520
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