By The Day


カテゴリ:essay( 14 )



和菓子を好む日本人

いよいよ世間ではGWが始まって、いよいよ僕にはゆっくり寛げる、ゆっくりムダなことができる比較的好きな連休が始まった。
そんな連休の初日にばあちゃんがやってきて、端午の節句には二日ばかり早いけれど柏餅を持ってきてくれた。それで遅ればせながら気づいたのだけれどもばあちゃんの孫、僕にとっての甥(驚愕!)が一歳を回って、聞けば歩けるようにもなったみたい。若い命の成長を感じて、何となく自分も勇気付けられたような、そんな柏餅だった。

さて、その柏餅を食べて思ったことはもう一つ。食というのは”医食同源”という言葉に代表されるように人間が生きるうえで非常に重要なウエイトを占めていると思う。しかしここで言う食はやはり”主食”なのであって日本で言うなら”おやつ”にあたるものってどうなのかな、という考えに至った。不思議なことに日本人は(少なくとも僕の周りに居る日本人は)おやつというとやはり”和菓子”がいいねぇと口をそろえて言う。子供の頃はそんな”和菓子”なるものを口にする機会など無いに等しい筈なのに、年を重ね、ひとたび”スナック”から離れ”和菓子”に手を染めるとたちまち”和菓子”の虜になってしまうようだ。

柏餅もそうなのだが和菓子が和菓子たる大きな理由、或いは和菓子がこうも愛される理由と言うのは日本のお菓子であるからでは無く、和菓子が生活にリンクした食べ物としてその歴史を刻んできたからであり、食す事で何らかの縁起を担ぐことができるというバックボーンを持っているからであると思う。

例えば柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴がある為、これを「子供が産まれるまで親は死なない」=「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ、「柏の葉」=「子孫繁栄」との意味を持つと言われている。そんな柏の葉を使った柏餅というお菓子が日本の歴史に登場したのは、徳川九代将軍の家重~十代将軍の家治の頃だと言われ 、今日端午の節句に振舞われるようになった。さらに端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものでは無かったのだが、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったのだという歴史背景もあり、ただ食す、に留まらない
何かが和菓子にはあるのだなと改めて実感する。

ばあちゃんの持ってきてくれた柏餅からこうも、考えなくて良いようなことまで考えてしまったが、こうしたムダに無い頭を使えるのも大型連休の魅力なのだと正当化しておこう。
さてと、柏餅をもう一ついただくかな・・・
b0088064_19345118.jpg

[PR]
by yu-yama0520 | 2006-05-03 19:35 | essay


銭湯の文化

日本には他の国には無いようなオリジナルな文化が存在するわけであるが、オリジナル度、という点において”銭湯”は突出しているように思う。

入浴、ということならば当然沐浴を含めて宗教的な要素をはらむにせよたいていの人類が行うことである。ただ僕の知る限りにおいてはやはり互いに裸で語らい、その後は食事を取って寛ぐ「風呂講」的な文化は日本が世界に発信するスペシャルな文化の一つといって差し支えないように思うのだ。というのも高校時代にイギリスでちょこーっと(←この点強調。)暮らしたときも本当に彼らはシャワー+香水の毎日。たまに日本からやってきた僕に見かねて湯を張るときも半身浴といって差し支えないくらいの水位だし、そもそもバスタブは浅いし、と文化先進国とされる欧米がああならばやはり日本の”入浴”というコンセプトは非常に心地よいものなのだなあと実感する。個人ベースの入浴習慣がこうも違うのだから皆が集って一斉に大きなお風呂に入る”銭湯”なるものは彼らの目にはおよそ奇妙に映るのだろうと思う。

さて、そんな銭湯に今日親友2人と行ってきた。銭湯も江戸時代のそれとはかなり明確に線を画す訳で露天風呂ならぬ”野天風呂”なるものが僕らをお出迎えしてくれた。暑さと時間を忘れて、程よく出た星を見ながら、恋愛なり、結婚なり、家族なり、涙についてなり、羅列すれば野暮ったいような話を延々と数時間聞いては話し、話しては聞きを繰り返した。にしても彼らは本当に頭が切れて、ロジカルで、ワクワクする。程よく暖かいお湯の力も借りて、またお酒に乗ってする話とは違った切り口から、真剣に議論がし合えたように思う。

利便性の追求と共に”銭湯”もその形を大きく変えてきたが、人々が風呂に求めるもの、何故銭湯なるものを作ったのかということは依然として不変なのだなという気がした素敵な一日であった。


  
[PR]
by yu-yama0520 | 2006-05-03 02:09 | essay


家族観

最近自分の中で”家族”というものを如何に捕らえるのか、ということがちょっとしたアジェンダになっていて、それゆえこの映画は、映画の良し悪しという枠を超えて、”家族”というものを改めて内在化させてくれたように思う。

生まれるのは家族があるから、生きてこれたのも家族のおかげ、家族の愛があるから今の自分がある。確かにそのとおりで生んでもらったこと、今の自分にこのような環境を与えてくれたこと、その他諸々1人ではなしえなかった多くのものを与えてくれた存在として家族には言葉に出来ないほどの感謝をしている。

問題はこの先。家族というのはmustなのかということ。確かに世間一般的な”暖かい家庭”が作れるのならばそれに越したことは無い。しかし少なくとも両親を反面教師にしている部分があることは否めないし、仮に家族(家庭)を持ったとして子供(子育て)はどうするのかという漠然とした不安もある。家族を自分の行く先と可分して考えることの出来る自分が不安になることもある。でもいずれにせよ、こうやって考えなくては持つべき資格の無いもの、それが家族なのかも知れない。

さて、だいぶ長い前置きであったがこの『空中庭園』、前々から見たい映画ではあった。そもそも邦画好きの自分にとっては時代劇でもアクションでもない、かといって恋愛物でも青春群像でもない”中性的な”映画というのはいつ何時でも観ていたいものなのである。
映画の与えてくれたインパクトは上述したので敢えて書かないが、小泉今日子の演技という点でその映し方にやや疑問が生じた。

『空中庭園』、空中に浮くような離散した家族、一見きれいな家族。
目を細めてしまいそうだがやはりこれも昨今の映し鏡、紛れも無い事実であることは自分の”家族観”に先立って認識しておくべきであると切に思った。

b0088064_16391891.jpg

[PR]
by yu-yama0520 | 2006-05-01 16:52 | essay


亀とアキレスと自分と

時は紀元前、エレア学派のゼノンは、パルメニデスの”不動説”を弁護しようと試み、物体の運動を否定する逆説を提示した。“亀に追いつけないアキレス”、”静止している飛ぶ矢”に代表される『ゼノンのパラドックス』である。
さて内容はというと、前者の例を引き合いに出すならばこんな具合になる。

「アキレスは亀と競争することになった
アキレスは亀にハンデを与える
がしかし、仮にアキレスが亀の二倍に速さで進んだとしても
アキレスが亀が元居た地点との中点を通過したとき、亀はその分前に進んでいる

するとアキレスと亀との間には必ず(無限に)中点が存在するわけでアキレスはその中点を通らないといけないという点において亀を追い抜くことは出来ない」

パルメニデス、並びにゼノンがこれをもって物体の不動性を唱えることには、もはや詭弁と言って差し支えのない経験的な根拠があるが、上記のパラドックスのみを字義的に見たとき、そう簡単に放り出すことの出来ない何かがあるように思う。

数千年の時を経た今、アキレスの追いかけた亀は”目標”という形で自分の前途に確かに存在する。追いかけても捕まえられるものでないからこそ目標といえる一方、捕まえられないともがくほどそのループに嵌ってしまうという点でパラドックスとも言える。

しかしやはり、自分はゼノンのパラドックスを経験科学的に破る立場を取りたい。
きっとアキレスは、何の不思議もなく亀を抜いた

そして自分も何の不思議もなく亀を抜く人間でありたい
亀を抜いて、パラドックスを破って、慢心のアキレスとは裏腹に

次の亀を探し求める人間でありたい。

blogの初投稿
タイトル"By the day"に寄せて
[PR]
by yu-yama0520 | 2006-04-29 00:41 | essay

    

日々自分を見つめる。
by yu-yama0520
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧