By The Day


カテゴリ:essay( 14 )



心理テスト

先週末は本当に有益な時間が過ごせたなあと思う。中でも土曜日は本当に楽しかった。僕の言うところの”楽しい”は辞書の言うところのそれとまたちょっとずれていて”構える”という意味なのだ。構えると聞くとともすると本当に”楽しいの?”という反論をされそうだが実はこれがまた難しい。”構える”というのは僕にとっては何よりの充実の証なのだ。

そもそも人間には自分が魅力的に感じる人や仲良くなれる人がいて、そうでない人がいる。これは当たり前だと思うのだがどうも、やはり学生故なのかそういうことを当たり前とは思わない人も多くいるようだ。というよりはそういう人が多数派でだから僕みたいな人間は飲み会に行っても「楽しい?」とか奇想天外な質問をされてしまうのである。苦笑
そんなこんなだから自分と似たような人を見つけたときは本当に古着の中から最高にカッコイイヴィンテージデニムを発見したときのようなウキウキした気分になって幸せになれるのです。

さて、話は本題に戻って、その土曜日の充実した時間の中でいくつかの心理テストなるものを受けました。本来は信じないんだけどそもそも心理テストってそういうのをされる(対象たる)ことが嬉しいんだろうね。質問はいたってシンプルで

「窓を開けると下で誰かが手を振っています。この人何歳?」

僕は即座に
「同い年」

すると結構驚いた顔して「へ~なかなかいないよ。むしろ初めて!」

なにを判断してるのかと思ったら”精神年齢”みたい。心理テストって上手くいくと「なるほど!」なのに上手くいかないと「え~!!」ってなるけど今回は前者、で何となく嬉しくなった。
他にも政治やら、経済やら、ルネッサンスやら、日ごろの愚痴やら、そんなものをゆっくりと話して本当に楽しかった。
贅沢な時間の使い方が出来た週末。またあるといいな。
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by yu-yama0520 | 2006-06-14 02:05 | essay


年齢による呼称の類型化

「おにいはぎりぎり”お兄さん”だね」
10歳も離れた妹が、どういう経緯だったのかは分からないがこんなことを言ってきた。僕はその”ぎりぎり”という言葉に引っかかって「じゃあナミ(←妹の名前)達小学生にとって”お兄さん”ってのは何歳くらいなの?」と幾分慌てて聞き返してみた。すると瞬時に「中学三年生までが”お兄ちゃん”世代。高校生から25歳までが”お兄さん”世代。んでもってそれ以上が”おじさん”。」とニコニコしながら答えた。ニコニコした理由は明快で僕が指折り数えてみると・・・まもなく彼女の類型では”おじさん”世代に突入なのだ(笑)!そんな僕の心を見透かしたように「キムタクはもうおじさん、おにいももうちょっとでおじさん。」といってその場を去ろうとしていた。

僕は土俵際の粘りを見せて、せめて妹に(10歳も離れているんだから)一泡吹かせてやろうと「じゃあ女の人も大変だな、えびちゃんももうおばさんだ。」といったらこれが大変、導火線に火をつけてしまったのだ。「女の人はもっと複雑なんだよ。中学生&高校生は”お姉ちゃん”20歳以降は”お姉さん”、それ以降も”お姉さん”。」「何が複雑なんだよ(笑)」と僕。「女の人はいつまでも若いの♪」と妹。そして去っていく。
複雑どころかこれは反証不可能で全てが「女の人はいつまでも若いの♪」で片付いてしまう。

でも不思議なのはこういう「年齢による呼称」をやはり女の子は意識しているということだ。それも10歳に毛が生えたような年齢から。こういう類型を考えるって事は即ち周りの目を意識することに他ならない。だからこそネガティブな意味で”おじさん”を使うし、ポジティブな意味で”女性はずっとお姉さん”なのだ。僕は「見た目を気に掛ける」事は実は非常に重要なのだと考えていてそれは女性・男性の垣根を越えて該当するアイデアなのだと思っている。だから客観的におしゃれか否かを問わず自分の中で客体を意識することはマストなのだと思う。やっぱりそういう女性の隣を歩けたら嬉しいし、そういう気分で飲むコーヒーは一層おいしいしね(←だいぶシチュエーションが飛躍した・・・)。もう先に書いた我が妹のカテゴリー自体を崩すのは無理なんだと思う。というのは彼女の周りに25過ぎてピシッとおしゃれしてる男性は居ないから。だったらせめてこの兄貴くらいはがんばって”おじさん”とかいわれないように気配りしなきゃ。
あと四年・・・がんばるぞ!
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by yu-yama0520 | 2006-06-04 21:43 | essay


バレリーナ

題字の通り、「バレリーナ」と聞いて僕が思い出すのはなんたらのなんたら(←何も分からない)に乗って体の柔軟性を武器に、軽やかに跳ねたり、時に足を開いて地面に座ってみたりするあの「バレリーナ」ではない。

僕にとってのバレリーナは俊英岩井俊二の「花とアリス」に出てくる蒼井優演じる有栖川のバレエ、つまりはバレリーナとしての蒼井優なのだ。もとよりああいう擦り切れて、風が吹いた後みたいな表情をする女性はすごい魅力的で、ましては細身となるとそれはもう魅力的この上ないのである。なんてもんだから作品中で蒼井優がバレーを踊るシーンはもう釘付けだったのである。(ちなみに御本人は経験者だったらしい。なるほど上手いわけだ)

そんな僕だから先日ある人に誘われて”モダンダンス”なるものを見させていただいたときは斬新さに胸が躍った。そもそも行く前は”モダンダンス”の何たるかなどという知識は微塵も無く、慌てて勉強したのだがどこを調べても僕にイメージを描かせてくれる説明は無く、結局”モダンダンス”=”社交ダンス風の緩やかなダンス”という(結局のところ大はずれな)知識を持って会場に行ったのである。会場には年配の方が多く、それもそのはず、というのも地域の振興行事なのだから僕みたいなへんてこりんは言わずもがなで浮いていたのである。

さて、本題のモダンダンスであるがこれが実にすばらしかった。何がすばらしいのかって僕の描いていたモダンダンスのイメージをあっさり打ち破り、それはこれまた僕の描いていたバレリーナの踊るダンスに近かったのだ。静と動、緩と急、そういった動きを腕と足、そして体全体で作り出しているようで、さらに奏でるジャズ、或いはもう少しノスタルジックな音楽が一層踊りを妖しくみせていた。さらに曲目ごとにきちんと衣装も変わって、こんな演技を只で見せてもらっていいのだろうか?なんて幾分の申し訳なさを感じながら岐路に着いたものだ。

映画の中の話を真に受けて現実に引きずり出すのはお馬鹿なのかもしれないが、あの時の蒼井優にみせられたのは「スイッチの切り替えの巧みさ」故なのだと思う。僕は(自分が二面性を持つ人間だから)全てが一面で乗り越えられてしまう(その意味ではすごいし、強い)人よりも実はこんな部分もあります、見たいな人がすごくきらきらして見えるしそういった部分を見たときは異様に共鳴してしまう。普段静かな、開くべきときにしか口を開かない人が、真剣に何かに取り組んでいたり、服を観てにこっとしていたり、そういうgapをみせるとき、そんなときが非常に好きなのである。
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by yu-yama0520 | 2006-06-04 21:15 | essay


ガトーショコラ

土曜日はあいにくの雨で、でも午前中のフットサルを終えるや否や、午後から親友と買い物に行った。今回はショップめぐりが主だったから(たいていコレクション終わってるし・・・)原宿や表参道を抜けて、Mister Hollywoodにフルジュンさん居なくて軽くしょげて、んでもって渋谷のカフェで休憩。droleというカフェで初めていってみた・・・・ら最高だった。というのもとにかく雰囲気は静か、家具がシンプルと本当に”憩いの場”ってな感じで、おまけに店員さんもユルカジで思わずポイントアップ↑笑

実は僕には(スタバではいつもレモンケーキだけれど)好きなスイーツがあって、それが”ガトーショコラ”!フランス語の授業でgateau=cake, au=of, chocolat=chocolateということを知ってから、それ故そんなマメ知識(←どうやら回りは皆知ってる。笑)を含めて口に運ぶと一段とおいしいのです。ここdroleでもそんなガトーショコラがあって、好きなおもちゃをショーウインドウ越しに指す少年のように目を輝かせて、注文したわけです。何と言っても無添加であることと甘みがすごく抑えられていて、ほんわかチョコ、ほんわかホイップクリームの甘み、ってのが何とも言えない美味。一緒に頼んだlussiもこれまた果物をそのまま落とし込んだ感じで最高だった。

こうやって雨という演出の中、ゆったり腰を落ち着けて、他愛の無い話、服のことやら、恋愛のことやら(「捕らぬ狸の・・・」)をするって最高の贅沢なんだなと思う。学校の数すくなーい友人にはそういう話できないし、そもそも飲み会の話やら、就活の話やら、そういう興味の無い武勇伝を聞かされるのが痛い僕にとっては全く趣味の違う親友と、全く違うからこそ食い入るように服の話をして、全く進路が違うから共通のトピックを見つけるために手探りして、そういう時間がほんとに幸せ。いつかは(これまた夢物語・・・笑)家族でああいうところで止まったような時間を過ごしたいな。もちろんガトーショコラは健在であって欲しい。
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by yu-yama0520 | 2006-05-28 22:27 | essay


”距離化”の産物

Anthony Downs という政治学者が残した功績は数知れないがDownsの功績の中でも、僕はやはり普遍化に最も適していると思う”ダウンズ均衡”がベストであると思う。Downsの”均衡モデル”のすばらしいところは、各Voterが合理的であることを前提とし、政党の政策と自分の理想との”距離化”を行うと考えたことである。

この”距離化”というのは実に画期的で、今まで数値的にしか距離を相対化できなかった領域を位置によって距離化をしてしまったのである。さらにこれは”二大政党における政策設定ポイント”という極めて政治的なトピックを突破して日常の様々なことに該当・応用できてしまうのである。例えば主婦が食材を買いに行くとき、もちろん単に道のりという数値的な要因で行く店を決定している主婦もいるのであろうがたいていは種類・値段・鮮度・立地といった様々な(単一単位でない)要素を考慮して、数店を評価した後、自分の選好に最も”近い”お店に行く、といった具合にである。

実はこの理論は「恋愛」にも応用できてしまうような気がする。
というのも誰かを”好き”という感覚は、そもそも”感覚”であり数値化できるものではない。だからこそ自分の理想といった選好に最も適合する人と(当然告白→OKの流れを経て)、恋人として付き合っていくのである。ここで大事なのは恋人はベストの選好であるということである。つまり仮に、今の恋人を脅かすような選好が浮上してくるとそこで”距離化”行われ、もしどこかでその”距離”が入れ替われば、即ちそれは好きな人が変わるということになる(当然ここでも成功するかは別にして)。

ここまで考えると、「なぜそんなに難しく考えるの?」とか「恋愛なんだから好きな人が変わるのは自然なことでしょ?」とか「また新たな好きな人が見つからないように愛せば良いんだよ!」とか色々な反論を受けることになるように思う。でも大事なのは今まで”それは感情の部分だから量れない”というのが定説であったことが、こうして”実は距離化できて、logicalに説明できてしまう”ということなのだ。

改めて思うのは僕の最初の恋が終わったときのことだ。あの時どこで彼女の僕に対する距離が、新しい彼との距離よりも遠くなってしまったのかは分からない。わからないということはやはり恋であり、そもそも理論モデルを適用することそれ自体が馬鹿げているのかも知れない。ただこうして思い返せば、やはり常に、前に転がるpositiveな人間であろうというなんとも大切な反省が顕在化されるのは”距離化モデル”の産物なのである。
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by yu-yama0520 | 2006-05-28 21:41 | essay


”加齢”というコンセプト

実に幼稚な問いかけになるのかもしれないが「人は何故、年をとることを嫌がるの?」という問いが依然として、僕には大きなしこりとなって頭の中にどんと居座っている。というのも「もう二十歳だよ」とか「高校生の頃は若かったな」という30歳とか、実に多くの”加齢”というコンセプトに対するネガティヴな発言が耳に入っては通り抜けないからなのだ。

そもそも”加齢”は”コンセプト”では無く”自然現象”なのだという意見も受け入れなければなるまい。自然現象ゆえに不可避だから、卑屈になってそういう発言になるんだという意見もある。しかしそれは加齢が何故不可避ゆえに卑屈なのかということを説明基盤に持たない”机上の空論”なのだと思う。
僕は加齢というのはあくまでも”コンセプト”なのだと思う。ここで言う”コンセプト”とは概念的なものであって自然的な”肉体的老化”というのとは線を画す。年を一つ重ねることを”加齢”と概念的に捕らえたとき、僕はいかんともいえないような嬉しい気分になる。十九歳が二十歳になって合法的に飲酒や喫煙ができるときのそれとは全く違う、だ。一歳年が増えれば自分に一つの年輪が刻まれることになる。さらに年輪というのは木が生長していることの裏づけなのであってもし仮に、僕も年を重ねることで年輪が体内に刻まれるのなら当然それは僕が一年分成長したことを意味する。非現実的な発想なのかも知れないがこういうある種の危機意識は自分をすごくモチベートしてくれるし毎日が少しずつではあるが楽しくなる。

そんな僕も今日ばかりは緊張する。というのも今日は年輪が刻まれたかどうかの発表日なのだ。がしかし、ここが年輪の美しいところであると思うのであるが木は最後に切ってみないと年輪がいかなるものかは分からない。成長を辞めない木だからこそ切ったときに見える年輪は美しい。さて、一体今年はどういう年輪がどういう形で刻まれただろうか?また来年はどうだろうか?

こういう「自分に拘る」生き方を、それとなく僕に浸透させてくれたのは間違えなく他界したじいちゃんだ。何よりも自分を大切にし、それ故同じくらい他人を大切にできるすばらしい人間であり尊敬すべき男であった。今年の年輪を持ってまた来年、いずれは亡くなったじいちゃんと片を並べ、それ以上に美しい円形を堂々重ねたいものだ。
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by yu-yama0520 | 2006-05-20 02:22 | essay


感性の問題

カルボナーラ、ペペロンチーノ、ミートソース、ナポリタン、このくらいならまだよいのだがペスカトーレ・・・この辺まで行くと正確な類型が出来なくなってしまう。つまりはパスタの話で一口に”パスタ”と言ってもその味は多用だということが言える。これにパスタ、生パスタ、ペンネ、などと麺の種類まで加われば混乱するには十分なのだ。

さて、僕達日本人は、これまたメインである”飯”に、イタリアの”パスタ”に負けないくらいの詳細な類型化をする。卵掛けご飯に納豆ご飯、おじやに炊き込みご飯、おこげ、なんて具合に”味付け・風味”的な区分けに加えて玄米、白米、などど米自体、イタリア風に言うなら”パスタの種類”の類型も行えばこれまた外人さんにとってはこの上ない混乱となるのだろう。

不思議なことに日本人にとっての米も、イタリア人にとってのパスタも、ベースは同じなのだが味や生地、素材を変えるだけで見るもきれいになったり、全く別物であるかのような味になったり、といった具合に変化を見せる。単に”味を楽しむ”事が限界にきたとき”形を変える”ことでその常食を楽しんできた先人達の知恵はこの上ない歴史の財産なのかもしてない。

さて、こういうおいしいものを口にしたとき、当然ながら僕を含むたいていの人は「おいしい」と感じる。それはかっこいい洋服を見て「かっこいい」と感じるが如くで、要は”五感”によって導出された表現ということになるのかもしれない。ただ、不思議なことにおいしいと僕が思うその同じ料理を食べても「まずい」という人もいるし、カッコイイと僕が思う服を(堂々と)きていても「かっこ悪い」と思う人もいる。(←これはしょっちゅう。苦笑)
ひょっとしたら”そんなのは個人の感性の違いだから当たり前”という当然の反論を買って僕の疑問は萎えてしまいそうなのだがひねくれ者は考える「いや、”感性が違う”って表現はおかしくないか?」って。

ある本でこんな言葉を、ある科学者は言っていた
「正しい自然観とは我々が五感で知ることのできるものと矛盾しないものだ」
なるほどと思う。何となく僕の気持ちを代弁してくれているような気がして嬉しくなった。この科学者の発言に付言するならばこういうことだろう。そもそも”自然観(自然をどう感じるかという点で感性とも言える)”ってのは同じでないことが前提だ。というのもたまたま同じものを観て、同じように感じる人が大多数だからそう感じない人は感性が”違う”といわれてしまうだけのことなのだ。信号を緑というか青というかも結局本人の五感とマッチしてるかが問題なのであって本当は緑なのか、はたまた青なのかということは問題なのではない。ならば洋服も、僕の五感とマッチしていればそれでよいのだな、なんて再認識してみる。

実はこの話にはこんな(些細な)起源がある。おいしいパスタやさんを見つけて、そこでパスタを食べて、こんなへんてこりんなことをぼんやりと考えてみたのだ。なるほど確かに僕の味覚と実際の味は矛盾していなかったしこればかりは”超自然的”な価値観で在ると豪語したくなる、そんなパスタだったのである。

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by yu-yama0520 | 2006-05-20 01:29 | essay


One more cup of coffee

いよいよ夢のようなGWが終わりを告げ
川を上る鮭のようにまた現実へと遡行していくこととなった。

にしても実に有意義な一週間であったなと僕なりに思う。人に”話すこと”を目的としてこうも多く”会いに”出かけた連休は初めてだからである。よく恋人と毎日会った、とか、恋人と大きな経験をした、とか言うような武勇伝なら耳に胼胝ができるくらい聞くのだが、僕があっていたのは男だしそれ故自分でも始めて腹のそこから楽しいと感じるような連休になった。

何でこんなことを思うかというと、それはコーヒーを摂取した量が尋常ではなかったから。スターバックス・ドトール・エクセルシオール・サンマルクカフェ・・・・・一日で四件梯子した日もあって連休中に総量二桁杯のコーヒーと付随してカフェインを摂取したことになるわけである。会話をどこかで腰を落ち着けてすることがいつしかコーヒー(なりなんなり)を飲むことになっていた。昔は(結構最近かも・・・)コーヒーなんて黒い&苦いで「これが飲み物か?」なんて思っていた。だけど今では腰を落ち着けるのはカフェ、シュガーやシロップも大抵不要、好きな濃さもあり、なんて具合になったしお気に入りのカフェも数店あったりする。

日本におけるコーヒー(”珈琲”のほうがよいかも)の歴史を紐解くと1609年平戸に和蘭商館が開設され、コーヒーが伝えられたと言われている。大正時代に入ってきた飲み物が挽き方・入れ方のさまざまなアレンジを経て今日に至ることは、そういった歴史性も含めて、古着が好きな僕の芯に訴える何かがあるように思う。

てなことを書くと、なんだかコーヒーが飲みたくなってきた。一人で本を読みながら、友人と真剣な話をしながら、友人の恋愛話を聞きながら、右手に握るコーヒーはその時々でそれとなく味を変える。バックに流れるがディランの曲ならば尚のことコーヒーは趣深いものになるのだろうな、なんて思うのである。
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by yu-yama0520 | 2006-05-08 15:31 | essay


スポーツドリンクを水と分けてコップに注ぐ

晴れたすがすがしい一日は、東京は千代田区、九段下の靖国神社で過ごすに尽きる。
なんてことはあり得ない話であるが、今日の晴れ日に靖国神社に行ってきたということは事実である。行ってみて分かったのだがやはり愛国心だとか、そういう上辺だけの言葉では形容できない”日本人のみが分かる厳かさ”を感じることになる場所であるように思う。

そんな靖国神社に関して語られるのが合祀・分祀の問題と言うことになる。
これまた”べき論”は避けて客観的、辺縁的な部分から見るのであれば、こんなことが言えるように思う。

明治天皇の思し召しで、戊辰戦争において国のために戦ってはその命を落とした護国の英霊、彼らを祀るべく1869年”東京招魂社”は建てられた。その後1879年東京招魂社は”靖国神社”に名前を改めた。と同時に従来内務省の管轄にあったのだが陸軍省と海軍省に管轄が移った。しかしいずれの時もこの社の持つ形態上の特徴は言わずもがな、今で言う公官庁が運営する言わば”公営”であった。
そして戦後、政教分離の原則に従って靖国神社は単一宗教法人(単一、とは神社本庁に加盟しないことをさす)となった。

以上が靖国神社の経てきた歴史過程と言うことになる。で、個人的な意見になるのだが国外では韓国にせよ、国内では民主党の小沢党首にせよ、合祀・分祀と言う言葉を誤認して使っているように思う。A級戦犯の魂をどこか別のところに移す=分祀では無いのである。そもそも合祀とは”魂を共に(合わせて)祀る”という意味である。一本のろうそくに”英霊の魂を200万柱以上”込めた。その中にはよくないと近隣国から批判される魂(A級戦犯)が混ざっているから別のろうそくに火を移してくれ。
おや?おかしいぞ・・・ということになる。一度一つの炎としてまとまったものから何かを切り分けるなど、スポーツドリンクを一部水とその他に分けてコップに入れてくれ、と同じぐらい不可能なことなのだ。とすると本来の意味では分祀をする、ということは即ちA級戦犯のコピーを別所に作るということなのだ。

さらに言うならば靖国神社は宗教法人であり、非営利であるにせよ財団なのである。これに政教分離の原則、信教の自由と言うスパイスを加えれば、というかこうしてまでも分祀の正当性を唱えるものとは議論が打ち止めにならざるを得ない。

さて現実にタイムスリップして、分祀の正当性はそれ自体が語義矛盾を起こすと言う立場を取ってきたわけであるが小泉総理の参拝によって加熱する炎にはどう対処すれば良いのかと言う現実的な問題とのすり合わせは必ず出てくる。

しかしこの問題を解く、というのは不可能である。と言うのもいかようにでも態度を変えて、それがさも正等であるかのように妄信して、火に油を注ぐ近隣国の存在が”靖国問題”を”靖国問題”たらしめているからだ。少なくとも国内レベルでは合祀・分祀に対する客観的視点を失わず、する・しない、という水掛け論を控えることが重要になってくる。

どうしようもない日和見的な不良に正論は届かない。不良が年寄りになって、無茶が出来なくなるのを待つのが利口だ。最もそのときには新たな若い不良が台頭しているのであるが。

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by yu-yama0520 | 2006-05-05 23:43 | essay


格差と恋愛

最近改めて感じたのだが、テレビをつければ格差、雑誌や新聞を開けば格差、ついに自分の履く二束のわらじの片一足(教育稼業)でも格差、一体どこまでと耳を疑うくらい”格差”と言う言葉が浸透している。

”格差”と言う言葉が、さもそれ自体がマイナスの要素を孕んでいるかのように使われているのでジャーナリスティックに『格差のある社会は良い、仕方ない』とか『格差のある社会はまずい』とか規範論を述べること自体の持つ意味が薄れては消えつつあるように思う。

僕は”格差”と言うものを自然の産物的に扱っている。というのも資本主義にして民主主義、欧州における一連の人権革命以降第一の宝ともいえるこうした概念を国家の基盤におきながら”格差”がでないこと自体が不思議に思うからだ。つまりは資本主義国家において保障されるべきは”入り口での公平性”なのであって”出口の平等性”では無い。”入り口での公平性”が保障された後、入り口を通った全てのものはその中で公平に競争(努力に換言できる)を行うべきであり、競争を行う以上出口の段階では当然”差”が付いてしかるべきなのである。この点こそが社会主義との大きな差であり、自由競争の結果偶然に皆が同じラインに居ると言うことが無いからこそ資本主義なのである。

話をもう少しミクロなレベルに落としこんで、さてA学習塾のあるクラスで成績に”格差”がついてしまったとする。10名のうち成績の良い5名は皆100点、悪い5名は皆0点。ここで格差容認論者は成績の悪い5人に対してこんなことを言う。「皆同じ条件でやってるんだ!努力して追いつけ!」一方格差反対論者はどうだろうか。成績の良い5人に対して「0点のやつらが可哀想だから平均点の50点を次回から取ってくれ。」と言うだろうか、否、成績の悪い5人に焦点を当て「がんばろう」と生ぬるい抽象論で語りかけるのである。大切なのはどちらが良いかではなくて、世間ではいくら批判的な見方をされている”格差”も、それが生じるミクロレベルでは格差に容認的であろうが否定的だあろうがアプローチの仕方こそ違えどやることは同じなのだということだ。とすると現実を悲観視する者が格差容認派、現実を楽観視する者が格差否定派と後付的なラベリングをしているに過ぎないということになる。

ではこれに似たものは身近でないのかな・・・なんて考えてみる・・・なるほど恋愛もこれに似ているように思う。恋人を諸々の社会的通念・規範と照らし合わせた上で好きだと認知している者は例えば相手のファッションにせよ、礼儀作法にせよ、バックボーンにせよ、それらで他との差別化を図った上でその相手をベストパートナーとして受け入れる。一方その逆もあって先ず絶対的な恋人ありき、その上で例えその相手のファッションにせよ、礼儀作法にせよ、バックボーンにせよ、が他と照らし合わせた上で劣ると思ってもそれはしょうがない、いいんだ、と思える人もいる。前者は往々にして格差を容認する立場を取り、後者は往々にして格差を否定的、或いは盲目的に捉える。”恋人はこの人”という線路を一本引くにせよ前者は様々な経験的事実から差別化を行い最終的な線路を導き出す帰納法的な手法を取るのに対し、後者は先ず線路を引く、その上で線路の正当性(優越性)を説明する経験的な事実を整えるという演繹法的な手法をとる。結果は同じ、”恋人”と言う線路が引ける、のにである。

やはり上り電車と下り電車は交わらないのだなと思う。
かつては単線で、一本の線路を上手く遣り繰りしていたものだ。
時代の進歩は割り切りの歴史でもある。上り線が下り線で無いように、自らの現在地を見据えながら反対線にも気を配りつつ加速していきたいと思う。


【追記】
この考えは必ずしも僕1人のものではなくて、非常に刺激的な韓流気取りの男とのムダな対話によって成立した考えである。この場を持って感謝、ありがとう♪
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by yu-yama0520 | 2006-05-04 23:33 | essay

    

日々自分を見つめる。
by yu-yama0520
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