By The Day


感性の問題

カルボナーラ、ペペロンチーノ、ミートソース、ナポリタン、このくらいならまだよいのだがペスカトーレ・・・この辺まで行くと正確な類型が出来なくなってしまう。つまりはパスタの話で一口に”パスタ”と言ってもその味は多用だということが言える。これにパスタ、生パスタ、ペンネ、などと麺の種類まで加われば混乱するには十分なのだ。

さて、僕達日本人は、これまたメインである”飯”に、イタリアの”パスタ”に負けないくらいの詳細な類型化をする。卵掛けご飯に納豆ご飯、おじやに炊き込みご飯、おこげ、なんて具合に”味付け・風味”的な区分けに加えて玄米、白米、などど米自体、イタリア風に言うなら”パスタの種類”の類型も行えばこれまた外人さんにとってはこの上ない混乱となるのだろう。

不思議なことに日本人にとっての米も、イタリア人にとってのパスタも、ベースは同じなのだが味や生地、素材を変えるだけで見るもきれいになったり、全く別物であるかのような味になったり、といった具合に変化を見せる。単に”味を楽しむ”事が限界にきたとき”形を変える”ことでその常食を楽しんできた先人達の知恵はこの上ない歴史の財産なのかもしてない。

さて、こういうおいしいものを口にしたとき、当然ながら僕を含むたいていの人は「おいしい」と感じる。それはかっこいい洋服を見て「かっこいい」と感じるが如くで、要は”五感”によって導出された表現ということになるのかもしれない。ただ、不思議なことにおいしいと僕が思うその同じ料理を食べても「まずい」という人もいるし、カッコイイと僕が思う服を(堂々と)きていても「かっこ悪い」と思う人もいる。(←これはしょっちゅう。苦笑)
ひょっとしたら”そんなのは個人の感性の違いだから当たり前”という当然の反論を買って僕の疑問は萎えてしまいそうなのだがひねくれ者は考える「いや、”感性が違う”って表現はおかしくないか?」って。

ある本でこんな言葉を、ある科学者は言っていた
「正しい自然観とは我々が五感で知ることのできるものと矛盾しないものだ」
なるほどと思う。何となく僕の気持ちを代弁してくれているような気がして嬉しくなった。この科学者の発言に付言するならばこういうことだろう。そもそも”自然観(自然をどう感じるかという点で感性とも言える)”ってのは同じでないことが前提だ。というのもたまたま同じものを観て、同じように感じる人が大多数だからそう感じない人は感性が”違う”といわれてしまうだけのことなのだ。信号を緑というか青というかも結局本人の五感とマッチしてるかが問題なのであって本当は緑なのか、はたまた青なのかということは問題なのではない。ならば洋服も、僕の五感とマッチしていればそれでよいのだな、なんて再認識してみる。

実はこの話にはこんな(些細な)起源がある。おいしいパスタやさんを見つけて、そこでパスタを食べて、こんなへんてこりんなことをぼんやりと考えてみたのだ。なるほど確かに僕の味覚と実際の味は矛盾していなかったしこればかりは”超自然的”な価値観で在ると豪語したくなる、そんなパスタだったのである。

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by yu-yama0520 | 2006-05-20 01:29 | essay

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