By The Day


格差と恋愛

最近改めて感じたのだが、テレビをつければ格差、雑誌や新聞を開けば格差、ついに自分の履く二束のわらじの片一足(教育稼業)でも格差、一体どこまでと耳を疑うくらい”格差”と言う言葉が浸透している。

”格差”と言う言葉が、さもそれ自体がマイナスの要素を孕んでいるかのように使われているのでジャーナリスティックに『格差のある社会は良い、仕方ない』とか『格差のある社会はまずい』とか規範論を述べること自体の持つ意味が薄れては消えつつあるように思う。

僕は”格差”と言うものを自然の産物的に扱っている。というのも資本主義にして民主主義、欧州における一連の人権革命以降第一の宝ともいえるこうした概念を国家の基盤におきながら”格差”がでないこと自体が不思議に思うからだ。つまりは資本主義国家において保障されるべきは”入り口での公平性”なのであって”出口の平等性”では無い。”入り口での公平性”が保障された後、入り口を通った全てのものはその中で公平に競争(努力に換言できる)を行うべきであり、競争を行う以上出口の段階では当然”差”が付いてしかるべきなのである。この点こそが社会主義との大きな差であり、自由競争の結果偶然に皆が同じラインに居ると言うことが無いからこそ資本主義なのである。

話をもう少しミクロなレベルに落としこんで、さてA学習塾のあるクラスで成績に”格差”がついてしまったとする。10名のうち成績の良い5名は皆100点、悪い5名は皆0点。ここで格差容認論者は成績の悪い5人に対してこんなことを言う。「皆同じ条件でやってるんだ!努力して追いつけ!」一方格差反対論者はどうだろうか。成績の良い5人に対して「0点のやつらが可哀想だから平均点の50点を次回から取ってくれ。」と言うだろうか、否、成績の悪い5人に焦点を当て「がんばろう」と生ぬるい抽象論で語りかけるのである。大切なのはどちらが良いかではなくて、世間ではいくら批判的な見方をされている”格差”も、それが生じるミクロレベルでは格差に容認的であろうが否定的だあろうがアプローチの仕方こそ違えどやることは同じなのだということだ。とすると現実を悲観視する者が格差容認派、現実を楽観視する者が格差否定派と後付的なラベリングをしているに過ぎないということになる。

ではこれに似たものは身近でないのかな・・・なんて考えてみる・・・なるほど恋愛もこれに似ているように思う。恋人を諸々の社会的通念・規範と照らし合わせた上で好きだと認知している者は例えば相手のファッションにせよ、礼儀作法にせよ、バックボーンにせよ、それらで他との差別化を図った上でその相手をベストパートナーとして受け入れる。一方その逆もあって先ず絶対的な恋人ありき、その上で例えその相手のファッションにせよ、礼儀作法にせよ、バックボーンにせよ、が他と照らし合わせた上で劣ると思ってもそれはしょうがない、いいんだ、と思える人もいる。前者は往々にして格差を容認する立場を取り、後者は往々にして格差を否定的、或いは盲目的に捉える。”恋人はこの人”という線路を一本引くにせよ前者は様々な経験的事実から差別化を行い最終的な線路を導き出す帰納法的な手法を取るのに対し、後者は先ず線路を引く、その上で線路の正当性(優越性)を説明する経験的な事実を整えるという演繹法的な手法をとる。結果は同じ、”恋人”と言う線路が引ける、のにである。

やはり上り電車と下り電車は交わらないのだなと思う。
かつては単線で、一本の線路を上手く遣り繰りしていたものだ。
時代の進歩は割り切りの歴史でもある。上り線が下り線で無いように、自らの現在地を見据えながら反対線にも気を配りつつ加速していきたいと思う。


【追記】
この考えは必ずしも僕1人のものではなくて、非常に刺激的な韓流気取りの男とのムダな対話によって成立した考えである。この場を持って感謝、ありがとう♪
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by yu-yama0520 | 2006-05-04 23:33 | essay

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